特別対談 「次世代へつなぐ旅がもたらす価値」

2025年の訪日外国人旅行者は4,000万人を超え過去最高を記録しました。
一方で、日本人の国内旅行はビジネス需要の減退などにより、コロナ禍前の水準を完全には取り戻していません。
そもそも旅がもたらす効果は何か?なぜ私たちは旅に出ないのか?をきっかけにラーケーションの可能性、
そして旅の価値を次世代へつなぐ方法まで話し合いました。

東京女子大学現代教養学部教授 矢ケ崎紀子

北海道出身。日本総合研究所を経て、2008年の観光庁設立に参事官(観光経済担当)として参加。その後、首都大学東京都市環境学部特任准教授、東洋大学国際観光学部教授を経て、2019年4月より現職。観光政策、観光経済、観光地域づくりを中心に観光をどのように有効に活用し、持続可能な地域づくりにつなげるかを研究。旅先でのおすすめの過ごし方は、のんびりゆったり、地元の人と食の魅力を探すこと。

JAL航空みらいラボ 取締役
航空事業調査研究部長 岩﨑平

大阪府出身。1992年旧日本エアシステム(現 日本航空株式会社)入社。羽田空港における5年間の地上勤務以降、約20年近くを国内路線計画などに従事。日本航空経営戦略部副部長、調査研究部部長を経て、2024年7月より現職。旅先でのおすすめの過ごし方は、誰も知らない「穴場」、自分だけの「とっておき」を見つけること。

旅の幸せはどこで生まれる?

岩﨑
「旅は人々を幸せにする、人生を豊かにするはずだ」という思いの元、弊社で約2千人にアンケート調査を行いました。その結果、長距離移動の経験がある人は未経験の人に比べ、主観的に「幸せ」を感じる人の比率が約2.2倍と、移動経験が幸福度を押し上げる傾向を確認できました。先生も、「旅は人生を豊かにする」と今回の論文の中でも書いていただいておりますが、具体的にどういうことでしょうか?
矢ケ崎
私も旅が大好きですし、旅は人を幸せにすると信じています。旅に出て日常生活から少し距離を置き、その地の魅力を楽しんだり、未知の体験から刺激を受けたりすることが、幸福感にとても関係してくると思います。
岩﨑
なるほど。日常から距離を置くことが一つの要因となるのですね。私たちJALグループは人や物を運ぶ仕事ですが、「移動によって幸せを感じる機会を生み出している」ことに、大きなやりがいを感じます。
矢ケ崎
ただ、日常からあまりにも離れすぎると不安を感じる人もいます。だからこそ、リスクが適切に管理された、安心できる非日常に身を置くことが大切です。
岩﨑
「安心できる非日常」ですか。もう少し詳しくお願いします。
矢ケ崎
現代の旅の多くは、未開の地を進む危険な冒険とは違い、危険が少ない範囲、リスクがコントロールされた範囲の非日常へ移動する旅で、安心の土台があります。具体的には、「安全に移動できる」、「旅先の情報がある程度得られて見通しが立っている」旅でしょう。
岩﨑
幸せを感じる仕組みはどのようなものでしょうか?
矢ケ崎
旅は出発前に期待が高まり、現地でそれが裏切られずに満たされることで満足感、幸福感が生まれます。また、旅先で感じた気持ちを同行者や周囲と共有し、共感を得られる回数が増えていくことは、満足感、幸福感をより確かなものにします。加えて、旅先で想定外のものを見つけたり、新たな人との出会いなどの「意外性」が加わると、より一層気持ちは高まります。
岩﨑
安心できる新たな環境に身を置き、さらに新しい発見、意外性が加わると、幸福感が高まるということですね。

旅に行かない4割の壁

岩﨑
2024年度の訪日外国人旅行の消費額は8.1兆円となるなど、インバウンドの伸びが注目されますが、日本人の国内旅行による消費額は宿泊旅行が20.3兆円、日帰り旅行が4.3兆円とその規模感はインバウンドの約3倍です。ただ、その国内旅行はいまだコロナ前の水準まで戻っていません。延べ旅行者数は約6億人から約5.4億人へ減少し、年間に一度も宿泊旅行に行っていない人も4割以上にのぼります。
矢ケ崎
旅行の実施率は、2008年頃から大きく変わっていない印象です。これは一過性ではなく、構造として続いている現実だと捉える必要がありますね。行かない理由は、介護、子育て、価値観、ペット、経済的事情など本当にさまざま。ただ、政策として手を打てる課題に絞って考えるなら、やはり休暇の問題が中心になります。特に「行きたいのに行けない」層にとって、休みの制約は大きな壁になります。
矢ケ崎
休みが取れない理由は、大きく二つ。業務が忙しく休めない場合と、休めても同行者と休日が合わない場合です。同行者がいる旅は相手と時間を合わせる必要があるだけに、シフト勤務などで休みがずれるとそのすれ違いが障壁になってしまいます。解消するには、休暇制度の整備に加え、予定を合わせやすくする仕組みが必要です。
岩﨑
働き方改革で休暇を取りやすくなった人は増えましたが、全体に浸透しているとは言い難いのが現状ですよね。また、子どもの休みは土日や長期休暇に固定されがちで平日は基本的に学校があります。結果として旅はいまだに繁忙期に集中し、混雑と価格高騰が起きています。
矢ケ崎
そのとおりです。せっかくの旅も繁忙期の混雑で疲れてしまいますね。その経験を「みんな同じだから」と受け止めてしまう空気もあります。けれど本来、旅は心身を整え、明日に向かう力を高める体験のはず。そこで、旅の効能を最大限にするためには混雑していない時、すなわち、平日に旅行できる選択肢を増やすことが重要になります。「ゆったりと旅ができた」という成功体験を持つことができれば、旅は大変なものから、また行きたいものへと印象が変わっていく。これが次の旅につながるポイントだと思います。
岩﨑
旅行費用の点でも、平日には休めない人、繁忙期にしか動けない人にとっては、旅そのものが割高に感じられて、結果的に諦めてしまうケースもありますよね。平日に旅がしやすい環境が整えば、価格面でも動きやすくなり、これまで旅に縁がなかった人も一歩踏み出しやすくなります。そして、旅の体験が増えれば、そこで得られる幸福感が次の旅を呼ぶ好循環が生まれると考えています。
矢ケ崎
はい。結局のところ、平日にも旅ができる環境をどう整えるかが、国内旅行振興における一貫した命題だと思います。

キーワードはラーケーション

岩﨑
先生がレポートで触れられていた、地域の取り組みが気になります。学校と企業、子どもと大人などそれぞれの休みの制度を、どう連携させるのかということですね。
大分県別府市では、「たびスタ」という制度を導入しており、市立小中学校の児童が平日に家族旅行などで校外に出て学ぶことを、教育活動の一環として認め、欠席扱いにしない制度を導入しています。愛知県でも同様の取り組みが進んでおり、「ラーケーション」として、年3日まで保護者の休暇に合わせ、体験・探究の学びを計画し、登校しなくても欠席扱いになりません。いずれも、子どもが平日に休みを取れる制度を導入することで、平日に家族で過ごすことを後押ししています。
矢ケ崎
別府市や愛知県のこうした取り組みには非常に期待しています。家族の時間が増えることはもちろんのこと、観光地の混雑の偏りを和らげることにもつながる一つの方法だと考えています。ただ、これは観光サイドの発想なので、教育現場の理解が最初から100%得られるというわけではありません。多様な体験が学びを深めることはわかっていても、学校や教育委員会にとっては、家族旅行で良い体験をする児童・生徒と、そうではない子ども達の間に格差が生まれることを心配します。教育現場での課題に対応するためには、制度を整えること以上に、実績を積み重ねていくことが重要になります。
矢ケ崎
また、こうした制度は、週末や繁忙期に勤務せざるを得ない観光産業の人々にとっても平日に家族で旅に出るきっかけになります。
観光産業に携わる人々が旅の経験値を高めることによって、さまざまな旅行者の立場を理解することができ、サービスの質が上がっていくでしょう。
矢ケ崎
ある温泉街の経営者の方々から、「お客さまの大半は東京や福岡からいらっしゃるため、東京や福岡にお客さまが普段どんな生活をしているのか見に行かないといけない」という話を伺いました。お客さまがいる場所へ自分たちが足を運び、お客さまの日常生活にないものを提供できるよう、自身の感覚をアップデートするそうです。また、経営者層だけではなく、従業員の方々に、異なる観光地やお客さまの日常を知ってもらうのは、とても良い研修になるのではと思います。観光産業の方々には、ぜひ、率先して旅に出てほしいと思います。
岩﨑
ラーケーションや旅スタなどによる平日休みを活用した取り組みというのは、家族の時間が増えることはもちろん、繁忙期を避けられることで費用を押さえて旅ができたり、観光業に携わる人も旅行に行く機会が増えたりすることでサービスが磨き上げられる。まさに「三方よし」ですね。

旅の価値を次世代へ

岩﨑
実際のところ、若い世代は旅をどう捉えているのでしょうか。私の感覚では、かつては旅行へいくことが、お金の使い道の上位だったのですが、今はそうでもない、と感じることがあります。
矢ケ崎
学生を見ていると、旅への意識は二極化しています。旅が好きな学生は価値があると思えば多少高くても行きますが、関心の薄い学生はコストパフォーマンスを重要視します。
旅の価値を理解している学生の多くは、幼い頃に家族旅行を経験していることが多いようです。親に連れられて旅をして、楽しさや意味を体感することで、「旅は特別で、行く価値がある」という感覚が自然に育つ。結果として旅好きが次の世代へ引き継がれていく。ある意味、拡大再生産のような構造ですね。
岩﨑
確かに、幼少期の体験は大きいですね。家族旅行の経験が、その後の選択に影響するのも納得できます。となると重要なのは、旅の経験がない人に最初の一回をどう届けるか、という点ですね。先生はどの層に可能性があるとお考えですか。
矢ケ崎
自分で貯めたお金で行き先を選び、旅を組み立てられることができるようになる大学生が重要だと思います。初めての旅を豊かな経験にできれば、その後の人生でも旅が選択肢として残りやすい。旅が生活の中に自然に組み込まれて、「そろそろ次の旅に出たいな」と考えるようになります。それくらい「旅癖」がつくと、その世代が将来の旅行需要の土台になります。
矢ケ崎
社会人になってから旅を増やすのは意外と難しいだけに、社会に出る前の経験が大切。近場から中距離、長距離、海外へと4年間で段階的に旅を重ねれば、抵抗感も薄れていきます。航空会社の若年層向け運賃設定のような仕組みは、時間はあるけれど金銭的に余裕のない世代を後押しする点で効果的だと思います。
岩﨑
高校生では、自治体の支援で体験機会が用意されるケースもあれば、修学旅行が初めての宿泊旅行になる子もいます。小中学生は家族旅行が初回になりやすいですね。そのうえで、次は自分で行き先を選び、自分の意思で旅を経験していく段階が大事になって来るということですね。
矢ケ崎
旅の目的にも注目してみましょう。家族旅行は、癒やしや家族の絆を高めたりすることが中心で、旅の目的としてそうした価値はもちろん大切です。一方で働き盛りの世代の旅行には、旅を使って、「日々の仕事の中で固定化した頭を柔らかくしたり、意識的に視野を広げる」という発想も出てきます。経営層や起業家、富裕層に多いのですが、旅を「既成概念や成功体験から自由になるための時間」として使う人は少なくありません。
矢ケ崎
「このやり方でうまくいった」という思考や行動を手放すのは簡単ではありませんが、それができなければ変化の時代、不確実性の時代を生き残れない。そのための手段が、日常生活圏を離れる旅なのです。そしてそれには自分の価値観が揺さぶられるような衝撃のある本物感が欠かせません。そのために、人間国宝のような方々から直接お話を聞くことを好む人もいれば、自然の偉大さに触れるような体験の中で謙虚さを呼び覚ます人もいます。
岩﨑
これは私たち自身にも当てはまりますね。仕事の中でも、意識しないと視野は固まりやすい。だからこそ、平日に旅に出るという発想も大事なのだと思います。今日の話を通して、旅は単なる娯楽ではなく、日常を更新し、人生や社会を少し前に進める装置にもなり得る、ということがわかりました。
休みの取り方を工夫し、平日に動ける選択肢を増やしていくこと。そうした積み重ねが、旅行者を増やし、家族の時間を豊かにする。また、観光の担い手を育て、地域の魅力をさらに磨いていくことにもつながっていくのですね。

すべてを変えることは難しくても、工夫できる部分から広がっていくように、我々も地道にできることをやっていきます。今日の議論が、その一歩になればうれしいです。
矢ケ崎先生、本日は非常に興味深いお話をありがとうございました。

「旅は人を幸せにするのか」という問いから始まった今回の対話は、移動が幸せもたらすという本質的な価値を再確認するとともに、それを阻む「休み」の構造的な課題について、アカデミアの視点から深い示唆をいただく機会となりました。「ラーケーション」や平日旅行のすすめは、単なる混雑緩和にとどまらず、新しい教育のあり方や働き方につながる重要な鍵となります。JAL航空みらいラボは、これからもアカデミアや地域と連携しながら、旅の価値を次世代へとつなぎ、これからの時代に求められる新しい移動のあり方を共に考え、育んでいきます。